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歴史の道調査事業 近世第7回調査

日時

 平成23年10月16日(日曜日)

参加者

 小野寺(専門委員)・小圷(調査員)・大嶺・有賀・石井・山屋(茨城大学)・石井(事務局)

 

岩城相馬街道 泉川道標(日立市大みか町)~森山宿(日立市森山町)~大沼宿(日立市大沼町)~下孫宿(日立市多賀町)

泉川道標(所在地 日立市大みか町6丁目15番)

 大甕神社前を通る旧国道から泉神社へ至る分岐点にある道標です。

 道標の正面に「従是 泉川道」右側に「此地ミカノ原水木村へ十二町」左側に「常陸廿八社之内天速玉姫神社」とあります。

 右側面に「奥州岩瀬郡須賀川 泉屋忠兵衛立之」、左側面に「明和八年辛卯四月吉日」とあり、明和8年(1771年)に現在の福島県須賀川市の泉屋忠兵衛なる人物が設立したことが記載されています。

 道標が設立された江戸時代中期は一般庶民の社寺参詣の風潮が盛んになり、常陸式内社十二社めぐりの一つでもあり景勝地でもあった「泉が森」脇に鎮座する泉神社への参詣者が多かったことがうかがわれます。

 日立市指定建造物文化財の第1号に指定されている貴重な文化財ですが、「泉川道標復元之記」によれば、自動車の交通量の増加に伴う道路整備のため、隣接する日立製作所の保養施設(大甕倶楽部)内に移設されていたものを、地元の有志により昭和38年に元の位置である現在地に移転されたとの記載があります。

 このため、道標自体は当時のものですが、下部の石組みは移転時に構築されたものと思われます。

 本日は、ここを起点に出発です。

 

泉川道標

▲泉川道標

 

余録 大甕倶楽部・大甕陶苑について

 泉川道標の向かいにあるのが、(株)日立製作所の保養施設である大甕倶楽部です。

 日立鉱山の電気機械修理の一部門から、世界的企業に成長した日立製作所が、昭和11年、社員の「体力ノ向上ト道義ノ涵養」に資するため、及び外国からの顧客を接待するために創設した日立ゴルフ倶楽部のクラブハウスとして建てられたものです。

 日立ゴルフ倶楽部のコースは、6650ヤード、パー74、18ホールの県内最初に創設された本格的なゴルフ場であり、我が国のゴルフ場設計の第一人者である井上誠一が戦前手がけた貴重なゴルフ場でもあります。戦後の混乱により、食糧増産のため畑に転換されるなどしましたが、昭和28年6ホールの大甕ゴルフ倶楽部として再開され、現在に至っています。

 大甕倶楽部は、切り妻屋根、高床式の神殿造りの和風建築で、設計を担当した岸田日出刀は東京帝国大学工学部建築学科の教授で安田講堂を設計したことでも知られています。 ゴルフ場敷地内にあるのが大甕陶苑です。木造平屋の主屋と登り窯で構成され、大甕倶楽部の建設の翌年昭和12年に創設されました。日立製作所の創業者小平浪平は、社員がゴルフに興じる合間に家族とともに陶芸を楽しめるようにという理由で陶苑を作ったといわれています。

 また、この陶苑は、会社が使用する贈答品や記念品などの陶器制作を行う部署(同社多賀事業所の窯業部門)でもありました。戦後しばらく閉鎖されていましたが、昭和30年再開され、著名な陶芸家である富本憲吉門下で京都市立美術大学に在学していた2人の学生が技術員として採用されています。昭和後期を代表する陶芸家加守田章二と、本県の陶芸史に重要な足跡を残した竹内彰です。

 加守田は3年後に益子へ去り独立しますが、最初の個展は日立商工会館で開催されています。また、竹内は2001年に大甕陶苑が閉園するまで陶苑で創作を続けました。

 いずれも、我が国の近代の歩みを後世に伝える産業・文化遺産として、貴重な近代化遺産であるといえます(平成17・18年度「茨城県の近代化遺産総合調査」において調査報告されています)。

 

日輪寺(所在地 日立市森山町)

 真言宗豊山派の寺院。山門脇に明治45年建立の馬頭観世音や昭和17年建立の軍馬供養塔などの石碑仏が確認されました。街道筋に建立されたものがこの場所に集められたものと思われます。

日輪寺

▲日輪寺

 

旧森山宿

 国道6号線に沿って旧家が並んでいます。

 その内の1軒(T家)を訪問し、御当主から当時の様子を伺いました。

 かつて醤油醸造業を営んでいたとのことですが、当地は固い岩盤に覆われており井戸の鑿井ができず、水道が整う以前は、山水を溜めて水を得たとのことです。

 

旧森山宿

▲旧森山宿

 

吉田神社(日立市森山町)

 社伝によれば延暦14年(795)に八幡神社として創建、元禄8年(1695)徳川光圀の社寺改革によって吉田神社に改称され、旧森山村と大沼村の鎮守となったとのことです。

 室町時代から近世にかけての棟札(27枚)が確認され、日立市の指定文化財になっています。棟札とは、建造物の棟上げや修復に際して、工事の名目と時期、願主、施工職人の名前などを記入した札のことです。修復の度に新しい札に併せて古い札も継承して納置されることも多く、棟札を通して地域の貴重な歴史情報も得られるものです。

 

吉田神社

▲吉田神社

 

森山一里塚跡

 森山の一里塚跡です。

 日立地方の一里塚として記録に残るのは、南から田中々、森山、下孫、助川、滑川、小木津の6か所です。

 往時は、10m四方に高さ3mの盛土がなされ、榎を植えたとされています。

 榎の木は枯れて、今は、日立市教育委員会が設置した碑が残るのみです。盛土が崩されているのは残念です。森山から大沼にかけては松  並木が特に見事であったと記録されていますが、現在は全くその面影もありません。

 

森山の一里塚跡

▲森山の一里塚跡

 

伊勢神社(日立市金沢町)

 旧街道筋を山側に1㎞程進んだ金沢団地の入り口にある神社です。

 金沢地区は佐竹時代に金の掘削が行われた場所で、近くに金の堀穴跡もあります。

 鳥居の右奥に設置されている石仏群の確認調査を実施しました。

 

伊勢神社

▲伊勢神社

 

相馬碑(日立市多賀町5丁目地内)

 下孫宿を外れ、旧6号国道を北上し、現在の国道6号線と交差する信号の300m手前の左側にあります。下孫宿の外れは孫沢原と呼ばれ、永禄5年(1562)此の地に進入した陸奥相馬中村城の城主相馬盛胤率いる相馬軍が佐竹軍との合戦で多くの将士が戦死したことから建立された供養塔といわれています。

 碑は高さ2.2m、幅1m、厚さ30㎝程で、日立市周辺で産出される緑泥岩の自然石です。江戸時代、相馬藩主の相馬氏は参勤交代の折、此の地を通行するときは必ずこの碑を参拝したといわれています。

 碑は戦時中一時行方不明になっていましたが、昭和34年国道・県道工事の際地中深く埋没されていたものが発見され、関係者の協力により 復元され、その後場所を変えながら現在の地に移設されたものです(「日立市の文化財」より)。

 相馬碑の傍らには数基の石仏が確認できました。

 詳しい調査は次回実施することとして、今回はここで調査を終了しました。

 

相馬碑

▲相馬碑

 

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