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歴史の道調査事業 近世第12回調査

日時

平成24年2月26日(日曜日)

 

参加者

小野寺(専門委員)、長谷川(調査員)、中嶋(調査員)、大嶺(茨城大学)、石井(事務局)

 

日立市折笠町(小木津浜)、北茨城市小野矢指~足洗~下桜井~磯原町

調査の概要

今回の調査は、前の調査で街道の導線が確認できなかった日立市折笠町の東連津川河口付近から旧川尻宿に抜ける街道筋の定点調査を実施、その後高萩市赤浜に移動しそこを起点として北茨城市小野矢指から磯原町の大北川河口付近にある天妃山まで北上しました。今回調査する岩城相馬街道の道筋は、陸前浜街道の別称のとおり、海岸に沿って調査を行うもので、当日は曇天で低温・強風の中の調査となり、往時の道中の困難さをほうふつさせるものでした。

 

「東連津川河口付近」(日立市折笠町)

東連津川の河口付近を小木津浜といいます。旧国道6号線(浜街道の表示があります)が海岸沿いに川尻町に抜けています。途中大きな切り通しとなっていますが、江戸時代にこれだけ大きな切り通しを付けることが可能であるか。また、海岸すれすれに道筋がありますが、道中の安全を考慮するとここが街道であることは考え難い。このため、街道脇の崖地沿いに道筋があるかどうか調査したものです。この写真は崖地沿いの山道をたどっている途中、東連津川河口付近を撮影したものです。河口一帯は東日本大震災の津波の直撃を受け、家屋の流失もあったところです。なお東連津川は「とうれんづがわ」 とよみます。郷土史によると「とうれん」は(とおれない)から転じたとの言い伝えもあるらしく、交通の難所であったことがうかがわれます。

 

東連津川の河口付近
▲東連津川の河口付近

 

「崖地上にあった石仏」(日立市折笠町)

崖地の頂付近の海を望んだ場所に青眼不動などを刻んだ石仏が2体ありました。
長年の強風にさらされたためか、真ん中から大きく破損していました。
海難事故等で命を落とした人の鎮魂のため土地の人が建てたものと思われます。
ここからさらに周辺を調査しましたが、街道筋の跡を確認することはできませんでした。

 

崖地上にあった石仏
▲崖地上にあった石仏

 

「旧街道」(日立市折笠町)

小木津浜から折笠海岸に抜ける旧国道6号線に沿った海岸付近に街道の跡は確認できませんでした。このため、少し山側に向かいます。現在の国道6号線の手前、常磐自動車道の取付道路との間に幅員の狭い道を地図上で確認し、調査しました。昼なお暗く寂しい道です。車の往来もほとんどない、地元の人しか利用しない道のようです。

 

旧街道
▲旧街道

 

上の写真の右側に馬頭観音を確認しました。
また、左上に建物が確認できますが、小さなお堂がありました。

 

小さなお堂
▲小さなお堂

 

日冬堂由来記
▲日冬堂由来記

 

写真が見切れて申し訳ありません。お堂の由来が記載されています。このお堂は日冬堂といって、日蓮宗の高僧日冬上人の墓碑を祀ったものであるとの記載がありました。日冬上人は江戸時代末期に小木津地方で布教活動をしていましたが、この地方の民衆から邪教であるとして、殉教死を遂げたとのことです。墓碑の建立は明治初期のようですが、幕末から明治の混乱期に起きた事件のようです。なお、この墓碑は昭和54年12月24日国道6号線と常磐高速道路の取付道路の工事中に発見されたもので、当時の工事関係者によって現在の地に移されたとのことです。
日冬堂から坂道を登ったところは、少し開けた丘陵地になっています。そこでご夫婦で農作業をされていた地元の方(70歳代)から、ここが昔の街道に当たるとのお話を聞くことができました。今ではここが街道であることを知っている人は地元でもほとんどいないとのことです。この土地は水脈が豊かなようで街道筋に多くの井戸が掘られ、往時の旅人ののどを潤したとのことです。日冬堂発見のいきさつなども教えていただきましたが、なかなかミステリアスな土地のようです。 

 

塩竃神社(北茨城市中郷町足洗付近)

高萩市赤浜から北茨城市中郷町に入ります。小野矢指と足洗地区の境界付近にある塩竃神社です。この神社は、太平洋を望む険しい山の中腹にあります。参道の直下に常磐線が走り、鳥居と参道の間に線路があるため、参詣のため脇参道が別に用意されています。

 

塩竃神社
▲塩竃神社

 

足洗宿付近の道標(北茨城市中郷町足洗付近)

塩竃神社付近の踏切を渡り、国道6号線を離れ、山側に入ります。
常磐線の線路沿いに旧街道が真っ直ぐ並走しています。
足洗宿は、旧街道に沿って民家と溝が両脇に走っており、昔の宿場の面影を色濃く残しています。残念ながら写真を撮ることを失念してしまいました。
下の写真は、足洗宿の北はずれの街道の分岐点に当たるところで確認した道標と馬頭観音です。昭和初期の新しいものです。

 

足洗宿付近の道標
▲足洗宿付近の道標

 

下桜井宿への分岐点

足洗宿から国道6号線に戻りしばらく北上します。この分岐から国道6号線を離れて旧街道に戻ります。下桜井宿に至ります。
分岐点には数体の馬頭観音がありました。平成になってから、近くの方がここに集めたとのことです。

 

下桜井宿への分岐点
▲下桜井宿への分岐点

 

下の写真が馬頭観音です。
一番大きな石仏は、江戸時代のものになります。 

 

石仏
▲石仏

 

天妃山(北茨城市磯原町)

北茨城市の磯原町に入り、野口雨情生家跡から少し進み海岸に突き出た突堤に低山があります。天妃山です。中腹に弟橘媛神社が祀ってあります。境内の由来書によれば、「薬師如来を祀っていたところ、德川光圀がその像を松山寺に移し天妃神をここに祀り、磯原大津の海の守護神としたことから、この山を天妃山と云う。其の後天保2年德川斉昭が日本武尊の妃弟橘媛を守護神として祀り弟橘媛神社と改めた」とのことです。

天妃山の入り口
▲天妃山の入り口

 

上の写真は天妃山の入り口です。
鳥居の隣は、「吉田松陰遊歴記念碑」です。
吉田松陰は、近くの野口家を訪問した際、景勝の地であった天妃山を訪問したようです。
なお、新撰組の局長であった芹沢鴨(行方市出身)も若い頃弟橘媛神社の神官であったとのことで、歴史に名を残した人物の往来がこの地にありました。

 

德川光圀(西山公)が腰掛けたといわれる石
▲德川光圀(西山公)が腰掛けたといわれる石

 

天妃山の頂付近に德川光圀(西山公)が腰掛けたといわれる石がありました。
ここに腰掛けて眺めたと思われる風景が、下の写真になります。
太平洋が一望できます。

 

腰掛けて眺めたと思われる風景
▲腰掛けて眺めたと思われる風景

 

 今回の調査は、ここで終了となりました。

 

 

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