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関城跡は、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は 台地続きで数重の土塁と東から西側の大宝沼に通じる堀割
をめぐらす、天然の要害地 900а余に構築された城郭であ る。
1336年(延元元)、後醍醐天皇が神器を奉じて吉野に入っ てから朝廷は二つに分かれ争うことになり、吉野朝を南朝、
京都朝を北朝といった。 関城城主関宗祐は、南朝軍として北畠親房らとともに戦った。
御醍醐天皇が崩御し、義良親王即位の知らせを聞いた親房は「神皇正統記」を執筆し、関城の地で完成させた。
関宗祐・宗政父子は大宝城主下妻政泰とともに南朝軍として最後まで戦ったが、1343年(興国4)11月11日、遂に落城し、宗祐父子も城と運命をともにしたと伝えられている。
現在関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔があり、その南側には宗祐と親房の偉業を讃える石碑がある。
また、激戦を物語る坑道跡、大土塁の一部や空濠など当時の面影を随所にとどめ、さまざまな伝説とともに昔を偲ぶことができる。
地域の人々は、関 宗祐父子の真心と勇気を讃えて、落城の日を命日として毎年墓前祭を行っている。 |
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